そらまめのおと

8歳&2歳ボーイズの母が綴る育児記録と日々の日記。

上の子と同じ音楽教室の生徒になりました。

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こんにちは、そらまめです。

 

タイトルにもありますが…

6月から、上の子の通っている音楽教室の生徒に、私もなります。

 

…と言っても、門下は違うし、コースも違いますが。

 

 

ことの発端は、うちに来ているピアノの生徒さん。

もう中学生になったのですが、ピティナのコンペに出たい…と要望があり。

 

そのコンクール、なーんか、中学生の級から急にレベルが上がるのです。

曲を選び、教え始めたはいいのですが、自分の知っている知識が追いついているか不安があって。

自分のための学び直しも兼ねて、えいやっと。

音大卒のひとのためのコースへ体験レッスンに行ってきました。

 

 

体験なので短い30分ですが、他の人の耳を借りている…という感覚。

自分の音を言語化してもらうことで生まれる客観的な視点。

そのレッスンに向かうまでの経緯を交えた雑談。

ブランク10年以上あるのに受け入れてもらえた安心感。

 

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それから、

音大を卒業してからも、リトミックという形でずっと音楽自体は学びを続けていたのですが、

ピアノを演奏するうえで、学生の時には持っていた感覚のうち、何割かを、多分現実的でないから、とか、実用的でないから…という理由で(その感覚を)閉じていたようだ、ということに気がついて。

 

それは、例えば、ピアノという楽器は一度音を出してしまえば、その音自体は鳴っているあいだじゅう少しづつ減衰する、という事実。

もしも声だったら出してからもその音を強めることができるけれど、ピアノはそれは無理だからね…という諦めが、いつの間にか当たり前になって、しかも、その諦めが自分の中で無意識になっていたということ。

その音に対して、本当なら〝維持したい〟〝できることなら声のように強めたい〟と望む気持ちが、実際には音では表現できなくても、音色や視覚(身体の使い方とか、表情とか)とか、別の方法で表現できるのにそれを放棄していた。

そして、少なくとも学生時代までは、それを表現したいという気持ち、そして、その聞こえない音を聞く想像力を持ち合わせていたのだ…という気づきであり、

ピアノでは表現できないはずの〝維持したい〟〝強めたい〟は、表現したい気持ちを持っていていいのだ、という過去の自分を肯定する時間でもあり…。

 

 

 

初対面の先生&30分間という短い時間でしたが、とても充実した時間となりました。

 

 

そして、また色々勉強したいな、と思っています。(^^

こんな年になって、自分に課金するなんて無駄なんじゃないかって、

ほんの一瞬思ったけれど。

 

どんな自分になりたいか、なんて、

きっと生きている間は、

多かれ少なかれ誰でもみんなそれぞれ向き合っている課題で、

自分がそれに価値を感じるのであれば、

それはきっと有益な課金に違いない…

と思い直すのでした。

 

推し活の推しが

たまたま自分自身だったってことで、

 

ピアノを通して、また自分と向き合っていきます。

 

それでは…

 

今日もありがとうございました。